軽子坂高校…世間には進学校で通っている、私立高校。
放課後、校舎は傾いた日に照らされ、教室棟には窓から真っ直ぐに光が差す。
ここを学び舎として三年を過ごす、生徒達はあらかた帰宅している。
残っているのは、部活に熱心な者や、他の生徒とついつい話を過ごして、
帰宅が遅くなったもの、提出遅れの課題を放課後中使って仕上げ、やっと提出
できた者、委員会業務で残っている者…そんなところか。
おそらく、その中でも彼の存在は少々浮いていた。
宮本明。2年C組在席。
額に巻いた黄色いバンダナに、「LOVE&PEACE」のマーク。
…その意味とはほぼ裏腹に。
校内外、相手をほぼ問わず、乱闘やら傷害事件やらを頻繁に起こしている。
本人に言わせれば、「降りかかる火の粉を払っただけ」「…手加減はしたぜ?」
そんな彼に、近づく者は少ない。かつて、彼の腕っ節を利用しようと、近づいたものがいた。
が…。教訓にしては、大きすぎる代償を支払う事になった。
切れ過ぎるナイフ。諸刃の剣。触らぬ神に祟り無し。
そういうことだ。
彼もまた、自分から人に近づく事は無い。
周囲の人間と関わる必要を、あまり感じていないのだ。
それ以上に、欲するものがある。…そのあとでも構わない、と。
ごごう、重低音をたてて建物が揺れた。
いつもの屋上へ向かおうと、あと2歩で3階の階段を昇り切る、その瞬間、だった。
アキラは階段を踏み外す前に、手すりを掴んで、数10秒続いた揺れをやり過ごす。
(…地震…?)
地震にしては揺れ方がおかしい。普通の横揺れでもなく、直下型の
縦揺れでもない。やがて、揺れが収まって行った。
(…やけに暗い…こんな急に日が沈むか?)
怪訝に思いながらも、いつものように階段を昇りきり、
4階への扉を開け…その向こうに、深淵を見た。
渦巻く星々。揺らめく異質の空間。
「…!?何だこりゃ…?」
身を翻して、階段をニ段飛ばして駆け下りる。
正面の窓ガラスは無感動に、今見たばかりの、暗い世界を透かしていた。
紫に濁った空。見えるはずの街がない。どこからともなく、獣に似た声も聞こえる。
もっと景色を良く見ようと、窓のサッシを開けようとしたが、動かない。
鍵は掛かっていない。まるで、はめ殺しのように、どんなに力を込めても動かないのだ。
あちこちの教室から、生徒たちの叫び声が聞こえてきた。
パニックに陥っているのだろう。当たり前だ、常識の範疇を超えている。
アキラは、その声で逆に落ちつきを取り戻した。それが今、最も必要だからだ。
状況を判断するため、学校中を歩き回って見る。
教室の窓…どれも開かない。4階への通路…どれも切断されて(?)いる。
生徒たちは、一様にパニックに陥るか、途方に暮れているようだ。
女生徒たちの中には泣き出す者もいる。
出口を求めて校内を探索するものも見かけたが、成果は上がっていないようだ。
一人、泣きながら手を洗っている女子生徒がいた。
…洗面所の水道は、なぜか繋がっているらしい。
…ざあああああ…がしがし(石鹸)。ざばざばざば(すすぎ)。がしがし。
「えぐっ…ふぇっ…糸…引いてるしぃ…うえ〜ん…」本格的に泣き出したようだ。
ざばざばざば。がしがし。ざばざばざば。がしがし。ざああああ…
酷く動揺している。あるいは錯乱。
この非常事態で、恐怖の余りおかしくなってしまったのだろうか。
狂ったように手を洗いつづける、栗色のショートカットの後ろを横切りながら、
アキラは小さな哀れみを覚えた。
非常口…風紀委員が固めていて通れない。ぶっ飛ばして通ろうかと思ったが、
ここで騒ぎをおこすのは、あまり利口ではない。玄関…ここも切断。
学校内に閉じ込められてしまったのだ。
(そうだ、体育館への渡り廊下は、そのまま外に出られるはず)
通路が駄目でも、体育館には出口があるかもしれない。
用務員室の前を通って、体育館に抜ける通路に入る。
通路に入った途端、やけに嫌らしい獣の唸り声がした。強烈な腐臭もする。
犬の死体が二つ、廊下に転がっている。かなり破損しているうえに、腐っている。
おかしなことに、死体の転がり様や破片を見ていると、腐った後に破損したらしい。
…犬の腐った死体を、わざわざ床に叩き付けた…?
(…どこのバカだ。)
理由はすぐに判った。唸り声が近づいてくる。
歩くと爪が、廊下をかしかし掻く。だがその乾いた音と裏腹に、
そいつの体はじゅくじゅく腐り、涎だか腐った体液だかを、
口の端から垂れ流している。大きく抉れて、剥き出した肋骨の下に、
内臓が見当たらないところを見ると…消化液というわけではなさそうだ。
ホラー映画でみたゾンビを、そのまま犬にした感じだ。いや、犬がゾンビになったのか。
アキラは眉を顰めた。外見も酷いが、臭いも酷い。そのうえ、ゾンビ犬は2頭いて、
どうやら、彼を美味しく戴こうという姿勢なのだ。
「…上等。」火の粉は払う。
普通なら、犬2頭相手に素手で相手をするのは、かなり厳しい。
だが、ゾンビなら筋組織も腐って柔らかくなっているし、早さも防御も遥かに劣るはずだ。
そう読んでアキラは身構える。
最初に飛びかかって来たヤツの首を、身を翻しざま振りかぶった手刀で叩き潰す。
腐った頭の中身が、派手に飛び散った。そのまま床に叩き付けると、感覚器官を失った胴体が
よたりと歩いた。それには目もくれず、腹部を狙って噛みついてきたもう一匹を、
中段蹴りで迎え撃つ。
ぎゃひぃん!、と犬らしい断末魔。一撃でそいつの胸から背骨までを砕いた。
「何なんだよテメエら…」
冷静に、やっと本当の「死体」になった犬を見下ろす。
少なくとも、閉じ込められたここには、敵がいる。
状況を確認すればするほど、絶望的だと判って行く。
アキラは不思議な感覚を覚えていた。精神が凪いでいくような、高揚。
集中もしないのに、意識がどんどん研ぎ澄まされて行く。
「…ちッ」酷い臭いだ。
撒き散らされて、表面積の増した腐敗物が、より大量の不快な臭気をばら撒く。
アキラの手の甲から腐った小さな肉片が、つい、と糸を引いて落ちた。
今の戦闘で、ゾンビ犬の腐った体の破片を、浴びてしまっている。
忌々しげに舌打ちすると、アキラは、先程女生徒が手を洗っていた、水道に戻る。
もう洗い終わったのか、彼女はどこにも見当たらない。
手を洗いながら、気がついた。
(さっきの女、ひょっとして…あの腐れ犬とやりあったのか?)
戦い、2匹を倒して退いた…そして、おそらく彼と同じように、
ここで、腐った破片を洗い落としていたのだろう。
そう考えれば、すべて状況の辻褄があうのだ。泣いていた理由もわかる気がする。
だとすると、彼女は最初から、4匹を相手にしたことになる。
(…誰だあいつ)
ついでに、同じく汚れてしまったブレザーも洗ってしまう。
返り血ならぬ返り肉片を浴びた部分をつまみ洗いしてみた。
…ごしごし。ごしごし。なんだか手慣れている。
信じられないものを見る目つきで、彼の後ろを
金髪にピアスの派手な少年が、足を速めて通りすぎていった。
絞ったブレザーをぱぱん、と伸ばして、教室の窓際にある手すりに引っ掛ける。
ついでに、窓の外の景色を見ながら一服。
校舎はコの字型なので、教室からはグラウンド、両脇に張り出した校舎の一部が見える。
行けなかった校舎の4階は、ちょうど切り取られたように、存在しなかった。
(…待てよ…)
アキラは立ちあがって、生乾きの上着に袖を通し、廊下に出た。
いつもの屋上の他に、もう1箇所彼の「テリトリー」があった。
1階の階段横だ。悪魔と戦い、戻った者がいる以上、あの通路に近づく者は
多くないはずだ。それでも近づく奴は……。
あの通路に行こうとするなら、この階段横の前を通らねばならない。
(できれば戦えて、ここから抜け出す気概があればなおいい)
そんなことを考えながら、どのくらい経っただろうか。
制服がだいぶ乾いてきた頃。
たしたしたしたしっ、と軽い足音がした。…思いのほか速い。
プリーツスカートを翻して、栗色のショートカットの女生徒が、
彼の数メートル向こうを曲がって走り去ろうとする。あの通路に向かってだ。
「おい」
その速さにいささか慌てて、通りすぎようとする彼女に声をかける。
「てめえだ」
彼女が立ち止まって、振り返った。呼び止めた本人を確認して、寄ってくる。
間近でみると、思ったより華奢で小柄だ。
そのうえ童顔で、制服が同じでなければ中学生かと思っただろう。
「なに?あ、わたし2−Dのやまさきみん。よろしくね」
「…2−Dのみん、か」
「そう。<みん>って、<明るい>とか、<明(あきら)>って書くの」
<同じ名前>と微笑すらして答える、彼女の態度は落ち着いたものだ。
普通2−Cの宮本明といえば、降ってわいた災難のように扱われるものだが。
「おれは2-Cの宮本明だ…名前は聞いてんだろ?」
「うん。ケンカ強い人だよね」
小首を傾げて答える。どこか楽しそうだ。
さっきまで泣いていた筈だが、切り替えが早いのかもしれない。
(こいつ…それを知っててこの態度か。ふーん…)
出口が見つかったかどうか尋ねてみると、案の定
「校舎の中を一通り見て回ったが、やはり出口は見つからなかった」
と彼女は言った。
「体育館には…行ってねえだろ?」
そう言ってみると、みんは頷いて真摯な目をした。
「あそこは、悪魔がでるから行きづらくて…。でも、体育館だけだったの、あと調べてないのは」
つまり、あの通路を突破して、体育館を調べるつもりだったらしい。
…泣きながら手を洗っていたのだ。嫌悪もあるだろう。恐怖もあるだろう。
それでも行こうとした。何故?
(そいつは…まあ、おいおい…聞くか)
合格だった。
どこかで、正解チャイムが鳴った気がした。
「ひとつ抜け出せるアテがある…てめえも来るか?」
誘うと、目を丸くして驚き、慌てたように頷いた。
体育館以外に、出口を思いつかなかったのだろう。
「じゃ、外に出る準備をしようぜ…」みんの背負っていたリュックに目を留める。
「…いや、てめえ準備がいいな」アキラは、リュックからはみ出していた、
金属バットを手にとって、 軽く確かめるように振り回してみた。悪くない。
みんが、感心したように彼を見ていた。
「じゃ行こうぜ」「うん」
答えた彼女が、予想外に嬉しそうに笑いかえしたので、
アキラは何故だか、胸を突かれた気がした。
随分長いこと忘れていた、なにかに触れたようだった。
電算室でガキを倒して、悪魔召還システムを佐藤に貰った。
八幡先生からアームターミナルを入手。…準備万端だ。
用務員室のマンホールを使って、外に向かう。
下水路の中は当然暗い。水路の脇を懐中電灯をたよりに歩く。
水が流れていく音がする。これを辿れば、出られるはずだ。
早いところ、この湿っぽい陰気な場所から出たかった。
ここも、あの化け物どもが現れるかも知れないのだ。
「宮本くん、よくマンホールなんて思いついたね!」
「…水道は通ってた。ここに無いはずの屋上貯水槽からな…
…流れていく先の下水も詰まっちゃいねえ…外に通じてる筈だ…」
「うわぁ、すごい!わたしも手洗ったのに、ちっとも気がつかなかったよ」
…少々上の空だったのかも知れない。
だがそれ以上に唐突に、存在する筈の地面が消えた。
いや、確かに見えていた。落とし穴の上に置かれた幻のように。
「うわっ…」…落ちる!落ちる彼の腕を、とっさにみんが捕まえた。
「きゃっ…」彼の体重を支える寸前、彼女も落ちた。闇に呑まれる。
何か、薄い皮膜を突き抜けるような感触がして、いきなり景色が変わった。
咄嗟に、捕まれた腕を引いて、彼女を庇う形で受け身を取る。
ずだだん!
…間違いなく、石の床だった。衝撃を殺さなかったら、骨折は確実だったろう。
ことに頭から落ちていたら、死亡もかなりの確率で。
ショックで一瞬呆然としていたが、みんは跳ね起きてアキラを確かめた。
「ゴメン!大丈夫宮本くん!?ケガしてない!?」
「…してねえよ。ったくトロくせえな、てめえは…」
本当はわりと痛かったのだが、アキラ水準ではケガのうちに入らない。
「足とかちゃんと動かせる?どっか痛いところとかない?」
みんはしつこいくらいに聞いてくる。
「うるせえ。平気だっつってんだろ」
制服の埃を払いながら、アキラは立ち上がった。
「そっか、良かったあ…」ごめんね〜、と両手を合わせて涙目で連呼する
彼女が、本当にあの犬どもとやりあったのか、アキラは少々不安になった。
今も、庇わなければならない状態だったわけで。
見つからないように、一つ深呼吸をして。みんが言った。
「宮本くん、庇ってくれてありがとうね!」
「…別に庇ってねえ。たまたま下敷きにされちまっただけだ」
なんとなく、庇ったことを知られたくなかったので、そう答えてしまった。
「えええええっ!!!?」
彼女は半泣きで、ごめんなさいを唱え続けた。
(…ち…マズった…・汗)
とりあえず話題を変えようと、アキラは一番の疑問を口にした。
「…何だここは…変な所に出ちまったな…」
「全然外じゃないね。でも学校の中とも違うし、どこだろ?」
あまり見かけない石材で作られた、床と壁。それが微かに発光するのか、
明かりは見あたらないが、ぼんやりと周りは見渡せる。いつかテレビでみた、
エジプトのピラミッド内部と感じが似ていた。
他に仕方がないので、出口を探して歩く。
通路を塞ぐ、重い鉄の扉があったが、どうにも動かせない。
動かすための装置も見あたらない。つまり、自力で動かす他ない。
しかしどう見ても、人間では1p引きずることも無理だろう。
化け物でもない限り。
門を動かすのを諦めて、石室の違う一角に踏み込んだ途端。
彼は現れた。狭間偉出夫、軽高の生徒だ。しかし彼の…幽霊じみた、虹色に光る体。
もはや、かつての同級生ではない。彼自身、表情でもそれを示した。
侮蔑、軽蔑、嘲笑。
「まさかこっちに来る奴がいようとはね…」
タネ明かしをするように、ハザマは語りだした。
ここが魔界であること。ここからは逃げられないこと。
彼ら二人が、ハザマの支配下にあること…
ヨタ話につきあうほど、暇ではないのだ。しかし頭の片隅で、それは本当だと
感じていた。アキラは、それをはね除けた。
「チッ、ジョーダンじゃねえ!これ以上てめえのバカにつきあってられっか!」
「じゃあ、こうやって解ってもらう他にないようだ…!」
その答えを待っていたのだろうか。
楽しげに口元を歪めたハザマは、白手袋を填めた指先で彼らを指す。
いきなり破裂音と、激しい衝撃!
「あっ…!」
「が!?」
音を全身に叩き付けられたような激痛。骨が軋んで悲鳴をあげる。
こいつはヤバイかも知れねえ、そう思ったのを最後に、彼らは意識を失った。
どのくらい意識を失っていたのだろうか。
アキラの覚醒は、穏やかなものではなかった。
割り込まれる、とでも形容したら良いのだろうか。
最初、肉体レベルではない何かが、体を通り抜ける感覚がした。
体を持たないくせに、それは体温を持っていた。
そいつの感情が、意識が、アキラのなかで認識されていく。
体ではなく心が、端から分解されて何かに取り込まれるような、恐怖。
熱い。
組み替えられた部分に対応したアキラの肉体が、熱と力を帯びて、変わってゆく。
「うおおおおおお…頭の中が…燃える…」
激しい苦痛のなかで、体を包む別の体温。それは、暖かい人間のもの。
熱と痛みのせいで思考にノイズが走るが、それがみんだということは分かった。
馴れ馴れしい奴だとか、思う余裕はなかった。
(こいつに喰われるのか、俺は)
意識が流れ込んできて、そいつが魔神「アモン」であることがわかる。
抵抗、抵抗、抵抗。しかしそれは虚しく、抵抗する意識すら、違う何かに
組み替えられてゆく。
おそらく仕上げの一瞬。「宮本明」としての最後の一瞬。
意識が解放され、遍くものを見ることができた。
昨日までいた世界。来てしまった魔界。封印の塔。地のノモス。
片隅の玄室。倒れている自分。そして、今変貌する自分を抱きしめている、彼女。
泣いている彼女の、心すら感じ取る。
"かみさまでもあくまでもいいから、みやもとくんをたすけて"
"わたしのたましいとひきかえでもいいから"
今は、わかる。
彼女が、彼を捜し続けていたこと。
異変の後も、彼を探していて、体育館前の通路に入ってしまったこと。
悪魔に襲われて、ひどく怖い思いをしたこと。
その悪魔が出る通路を突破してでも、彼を捜し出そうとしたこと。
誘ってもらえて、嬉しかったこと。
庇ってもらえて、幸せだったこと。
今、身を挺してでも彼を助けたがっていること。
アキラはちいさく苦笑した。
バカだな、こいつ。
……ここで……、
消えるわけにはいかない!!!!!!!!
「宮本明」の最後の一片を、魔神が捕まえる。否、アキラが魔神をつかまえたのだろうか。
これまで組み替えられてきたアキラの意識が、逆に魔神の意識を浸食していく。
驚いたことに、魔神はそれに抵抗しない。お互いの記憶と感情を、完全に共有した時。
彼ら…いや、彼は、一つ身になったことを知った。
「俺の名は…アキラ…そしてアモン…」
呟く彼を強く抱いたまま、みんはまだ泣いている。
…しょうがねえなあ。
一緒にいてやるから、もう泣いてんじゃねえよ。
…奴を倒すまでだが、な…